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- 2018.12.29 Saturday
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JUGEMテーマ:歴史
2年前の9月の初め、私は青春18切符を使ってふらりと篠山市を訪ねました。
篠山城跡にある天守台は、天守が建つことがなかったというエピソードがあってそれもなかなか面白かったのですが、しかしそこから真正面に見える美しい形の山に、私の眼はくぎ付けになりました。
案内板によると、それは「丹波富士と呼ばれる高城山で 戦国時代には波多野氏が山城「八上城」を築き居城としたが、天正6年(1578) 明智光秀による丹波攻略で包囲され、1年にわたる籠城戦の末落城。 波多野氏は滅亡しました」・・・と。
戦国時代・山城・落城・・・そこには悲話があります。
そのロマンを胸に山城を歩くのが好きなのですが・・・如何せん私は方向音痴。
でもいつか行けたらいいな〜〜〜と思っていたら・・・
奇跡が起こりました(^O^)/
山城研究家の先生の案内で、八上城に登る事になったのです。
今までの私の人生は宝くじには見放され、PTAや自治会の役員には必ず当たるという苦難の連続でしたが、まさかその先にこんな幸運が待っているとは夢にも思っていませんでした。
その日を指折り数え、体調を万全にして、12月2日篠山市に向かいました。
この日の篠山市は快晴。
山城研究家の先生と合流して、合計4人で八上城への登山口「春日神社口」へ向かいました。
入口に建つ案内板
国史跡 八上城跡
八上城跡は、室町時代から戦国時代にかけて、丹波地方の有力国人である波多野氏が本拠地とした山城である。
16世紀中頃には、三好長慶や松永久秀と対立して、一時八上城を攻め取られたが、永禄9年(1566)に取り戻している。
天正7年(1579)織田信長の丹波攻略の一環として、明智光秀による兵糧攻めにより八上城は落城し波多野氏は滅亡した。
以後前田氏などが八上城へ入ったが、慶長14年(1609)の篠山城築城により八上城は廃城となった。
簡単に書くと、こんな内容でした。
春日神社の鳥居を抜けると、そこには2台くらいの車が停められるスペースがあります。
横には公衆トイレ(水洗)も設置されていました。
春日神社
春日神社は、平安時代の始めに奈良春日大社の分霊をこの地に勧請したのが始まりとか。
古い建物や土塀に趣があります。
篠山市には「まけきらい稲荷」という伝承が残る稲荷神社が各地にあり、ここにもその摂社があるそうです。
「王地山 まけきらい稲荷」については、後日記事にしたいと思っています。
では八上城跡に向かって、登山を開始します。
出発した時間は9時46分
笑い話ですが、実は私、いつも腕時計を写真に撮って時間を記録していました。
でも、写真のデーターを見れば時間が分かると、先生から教えて頂きました。
な〜〜〜るほど!
デジカメを使って十数年、今まで私はなんでそれに気がつかなかったのでしょう(>_<)
登山道に入ってすぐ「主膳屋敷跡」があり、その横には「八上城主前田主膳供養塔」がありました。
八上城が落城して波多野氏が滅びた後、丹波を治めた明智光秀も、間もなく本能寺の変を起こして滅亡。
以後、豊臣政権下の大名がこの地を治めました。
「前田主膳」もそのひとりで、前田氏の時代にこの辺り一帯に居館が構えられました。
そしてここが政治の中心となり、春日神社前を東西に通る古山陰道から北に向かって城下町が開けました。
さてこの「主膳屋敷跡」
今までなら何も気がつかずに通り過ぎていたでしょうが、先生の説明を聞いて気がつきました。
「切岸」です。
「切岸」とは、山の斜面を削り落として作った崖。
館を建てるために、山の斜面を削り落として平らな地面を造ったのでしょう。
結構な高さがあります。
よく見ると、石垣が少し残っています。
当時は石垣があったようですが、徳川家康の時代に新しく篠山城が築かれ、石もそちらへ運ばれたそうです。
その先を進むと、右手に「土塁」がありました。
私は今までいくつかの山城に登ったことがあるので「土塁」だけは理解できるようになりました(^^♪
ここまで来る途中、小さな曲輪跡がありましたが、写真の数が多いので省略。
そして「竪堀」もあったのですが、これは目で見て理解しても、写真に撮ると何の事やらさっぱり・・(+o+)
そしていきなり目の前に現れたのが「横矢掛り」です。
「横矢掛り」とは、土塁や曲輪の縁を折り曲げ、攻め寄せてくる敵を狙い撃ちにするのに効果的とか。
なるほど、この土塁の上に立つ兵士から矢の集中攻撃を受けたら、命がいくらあっても足りません。
そして「伝 鴻の巣」
ここには番所があったそうです。
木々の隙間から、篠山盆地が見渡せます。
さらに階段を登ると・・
視界が開けました(^O^)/
「伝 下の茶屋丸」
西からの敵に備えた陣地があったそうです。
遠く向こうに篠山城の石垣が見えると聞いて、カメラをズームアップ!
撮れました(^O^)/
「伝 中の壇」あたりから、緩やかな道になりました。
途中また「竪堀」があったのですが、やっぱり写真では無理。
この右上に上がった部分は「切岸」だそうです。
「伝 上の茶屋丸」
ここにも陣地があったのですね。
この窪みは「堀切」
「堀切」とは、尾根伝いに攻めてくる敵を足止めするため断ち切られた堀の事。
木々の向こうに見える山は「多紀連山」
八上城へと登る道は階段が整備され、手入れが行き届いています。
今まで行かれ方のブログを読むと、山上曲輪群までは結構ハードな道のりのように書かれていますが、私たちは先生の説明を聞きながらゆっくり歩いているので大丈夫。
そして「右衛門丸跡」
「城主の屋敷跡 全山の連絡や指揮にあたる所」と書かれています。
大きな石垣が積まれ、大変重要な場所であった様子が伺えます。
その近くに、姫が住んでいたという曲輪がありました。
城主の屋敷跡から少し下がった所にあるのですが、その場に立つと結構広い。
礎石が数個残っていて、建物があった様子が伺えます。
石垣も残っていました。
そして「三の丸跡」
「石垣を持つ広場に建物があり、南方谷間に対する重要防備陣地かと思われる」と書かれています。
南下を見ると、小さな曲輪が見えます。
それが「帯曲輪」だそうです。
反対側には「腰曲輪」??
この言葉、初めて聞きました(@_@。
山城ワードの上級編でしょうか。
そしていよいよ「二の丸」、その向こうに「本丸」らしきものが見えてきました。
「二の丸」から一気に「本丸」に駆け上がり「やった〜〜〜(^O^)/到着!」
到着した時間は11時22分。
八上城のある高城山は標高460m
普通なら「45分」で登る道のりを、その2倍の時間をかけて登ってきた訳です。
それだけゆっくり説明を聞いてゆっくり歩いて来たという事ですね。
(お陰で翌日、筋肉痛になる事もありませんでした)
本丸には「波多野秀治公表忠碑」がありました。
「表忠碑」? 「公爵毛利元昭題」?
先生にお聞きしました。
正親町天皇が践祚した当時、天皇家は大変貧窮していたそうです。
そこで毛利元就とともに、波多野秀治も献上金を差し上げ、正親町天皇は即位の礼を挙げることができたとか。
明治になってその功が認められ、このような碑が建てられました。
山頂から見る景色はこんなに素敵!
その景色を眺めながら、お昼ご飯を頂きま〜〜す。
お昼ご飯を食べて、ハタと気づきました。
二の丸から一気に本丸へと駆け上がったので、本丸の後ろにある「岡田丸」の写真を撮ってない・・
そこで本丸から「岡田丸」の写真をパチリ。
しかし、あとでパンフレットを見て気がついたのですが、この時立っていた足元の下に「本丸北側に残る石垣」があったのです(>_<)
しまった!
申し訳ないけれど、パンフレットの写真をお借りします。
山頂には小さな笹のような植物が群生していました。
名前を聞くと「篠笹(しのささ)」だとか。
あ!そうか。
篠山市の語源は、これなんだ!
・・・と、ひとりで納得(^^♪
八上城(後半)に続く
シネマの実家は春日町です!