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- 2018.12.29 Saturday
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落ち葉がいっぱい積もった道を、カサコソ音をたてて歩きます。
つくづく「お天気で良かった」と思いながら(^^♪
左手に土塁が続きます。
そして「伝 蔵屋敷」
続いて「伝 池東番所」がありました。
「水場を守るための陣地」ですか。
山城では、水は命の次に大事なのでしょうね。
ここから道は「藤ノ木坂コース」と「野々垣コース」に分かれます。
私達は、藤ノ木坂コースを進みます。
・・と「堀切」
「土塁」と「堀切」は、少し分かるようになってきました(^^♪
そして少し道を下がりながら進むと、神秘的な雰囲気が漂う場所に着きました。
それは「朝路池跡」
落城の際に、朝路姫が入水自殺をしたという伝説が残ります。
また、財宝を埋めたとも。
この朝路姫とは、波多野秀治の娘で大変美しい人だったと伝わります。
父が安土に連行され非業の死を遂げたと知るや、この池に入水したとか。
同行した女性にから聞いたのですが・・・姫のこの世への恨みでしょうか。
自分より美しい女性が池を覗き込むと、その人を池の中へ引きずり込むそうです。
あら困ったわ、私も該当します(@_@。
恐々覗き込んだけど・・・無事でした(^O^)/
池の向こうに「大堀切」があり、そこに突撃してくる敵を掃射したという番所もありました。
池のまわりに沢山の番所を置き、必死で守った様子が伺えます。
そして朝路池から少し歩くと「はりつけの松跡」があります。
ここです!明智光秀の母が処刑されたという伝説が残るのは・・
私はこの伝説を詳しく知りたかったので、井上靖の「戦国無頼 」という小説を読みました。
それを要約すると・・
八上城は包囲されたまま、新しい年、天正7年を迎えた。
その年の5月、織田信長はかつてない大軍を丹波に派遣し、八上城一城を残して丹波一円の勢力を掃討し尽くした。
そして5月21日の烈しい合戦のあった夜、光秀側から和議が申し入れられた。
和議の内容は、光秀方は母親を人質として八上城に入れること。
波多野方は、織田軍に降伏し、本領安堵は光秀に一任すること。
そして5月28日、人質の一団が八上城に到着。
城内では人質に偽りがあればすぐ焼き殺す用意を整えて、西蔵丸の上手に薪を山のように積み上げて十数人の男女を迎えた。
それから数日経った6月2日に、波多野秀治・秀尚の二人は、供奉の者80余人を連れて、明智光秀が本陣を置く城に向かった。
しかしその日のうちに八上城へと戻るはずであったが、そのまま二人は信長と対面のために安土に向かい、そして落命。
それを知った八上城の城兵は、光秀の母を含む人質全員を槍で処刑した。
「はりつけの松跡」の左手の下方に「血の池」もあったそうですが、現在は残っていません。
これは小説なので史実とは異なりますが、こんなストーリーを頭に描いてこの場に立つと、山城歩きも一段と楽しくなります。
さて「伝 馬駆場」の前後に、「大竪堀」がいくつかあります。
その写真がこれです。
大竪堀の様子が伝わるかな?
そして「芥丸跡」
芥川という名の武将が守った砦跡なのだそうですが、波多野氏の家臣には「芥川」という名はないそうです。
八上城は、永禄2年から9年までの7年間三好長慶に城を乗っ取られたことがあるので、三好家の家臣の名前かも知れないとのこと。
八上城の苦難の歴史を物語るような地名で、面白いですね。
堀切の中を通り・・・
いよいよ最後「誓願寺谷」に降りてきました。
天正年間(1573〜1593)のはじめ、八上城主波多野秀治は、室町幕府13代将軍足利義輝の子・義高を匿い、京都誓願寺で修行させました。
そして「覚山天誉」となった義高を開山として迎えて、この地に誓願寺を創建しました。
その後誓願寺は、篠山城築城に際して城下町に移されたそうです。
そしてイノシシの防護柵を開けて外に出ると・・
時間は午後1時06分。約1時間10分ほどで無事下山しました。
「藤ノ木坂入口」の石標がありました。
こちら側から登る人も多いそうです。
「藤ノ木坂口」から出発地点の「春日神社口」まで徒歩10分ほど。
途中、一里塚を見ながら、車の駐車場まで戻りました。
今回は「野々垣口」方面には行かなかったのですが、そちらもなかなかいいコースだそうです。
また機会があったら、私も歩いてみたいと思います。
午後2時半頃に撮った高城山の写真
この記事は、山城研究家の先生の案内を元に、私の解釈、資料を加えて書いています。
間違って理解したり、誤字・脱字も多々あると思いますが、どうぞお許しくださいませm(_ _)m
次は「奥谷城」の記事です。