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- 2018.12.29 Saturday
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JUGEMテーマ:歴史
篠山城は、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、西日本20諸侯の大名に夫役を命じて築城した「天下普請」の城です。
関ケ原に勝利したとはいうものの、大阪には豊臣秀吉の遺児・秀頼が健在であったため、大阪城包囲と、豊臣家恩顧の諸大名を抑える目的もあったようです。
縄張奉行は「藤堂高虎」、普請総奉行は「池田輝政」
わずか1年足らずの突貫工事で完成したといいます。
初代城主は松平康重、そして260年余の幕藩体制のもと篠山藩5万石(のち6万石)として松平三家8代と青山氏6代に引継がれ、明治維新を迎えました。
大書院 入口
大書院は、篠山城を構成する建物のひとつで、篠山城築城とほぼ同時期に建てられました。
明治の廃城令で篠山城の建物が取り壊された中でも大書院だけは唯一残され、その後も地元で活用されていたそうです。
しかし残念ながら昭和19年(1944)火災により焼失しました。
その後、多くの人の長年の願いにより、平成12年(2000)に復元されました。
南側から見た大書院
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12月初旬の丹波盆地はもうすっかりお米の収穫も終わり、刈り取られた田んぼが寒々と広がっていました。
そんなの田んぼのあちらこちらで農作業をされている方を見かけます。
何を収穫されているのかと思ったら、それは「黒豆」でした。
「丹波の黒豆」有名ですね。
真っ黒に輝く黒豆は、お節料理に欠かせないものです。
収穫された黒豆は、お正月商品としてこれから出荷されるようです。
今が旬の黒豆ですが、夏にも旬があります。
それが「枝豆」です。
黒豆の枝豆が美味しいのは私も知っていましたが、丹波黒豆の枝豆は一段と美味しいそうです。
枝豆をつまみながら、ビールをキューッと(^O^)/
篠山を訪れるなら、次は絶対夏に(^^♪・・・
と、そんな事を考えているうちに、中世土豪の居館に到着。
黒豆を収穫されていたのか、作業服を着たこの屋敷のご主人がにこやかに出迎えて下さいました。
お仕事の手を止めて、申し訳ありませんm(_ _)m
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高城山から南西方向に伸びる尾根の先端部分に、波多野氏が丹波に下向して最初の頃に築いたとされる「奥谷城跡」があります。
八上城跡の半分くらいの高さの小山で、別名「蕪丸城」とも呼ばれたそうです。
案内板によりますと・・・
室町時代中期、波多野清秀が石見国(島根県)から上京して細川勝元に仕え、応仁の乱で軍功をあげて多紀郡を与えられた。
清秀の子稙通の代になって、永正年間(1504〜1521)に八上奥谷に蕪丸城を構え、続いて浅路山(高城山)に八上城を築いたと考えられる。
その後、波多野氏は元秀・秀忠・春道・秀治と続き、主として八上城を本城として活躍し、蕪丸城はその根城的な役割を持ち、奥谷城とも呼ばれるようになった
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2年前の9月の初め、私は青春18切符を使ってふらりと篠山市を訪ねました。
篠山城跡にある天守台は、天守が建つことがなかったというエピソードがあってそれもなかなか面白かったのですが、しかしそこから真正面に見える美しい形の山に、私の眼はくぎ付けになりました。
案内板によると、それは「丹波富士と呼ばれる高城山で 戦国時代には波多野氏が山城「八上城」を築き居城としたが、天正6年(1578) 明智光秀による丹波攻略で包囲され、1年にわたる籠城戦の末落城。 波多野氏は滅亡しました」・・・と。
戦国時代・山城・落城・・・そこには悲話があります。
そのロマンを胸に山城を歩くのが好きなのですが・・・如何せん私は方向音痴。
でもいつか行けたらいいな〜〜〜と思っていたら・・・
奇跡が起こりました(^O^)/
山城研究家の先生の案内で、八上城に登る事になったのです。
今までの私の人生は宝くじには見放され、PTAや自治会の役員には必ず当たるという苦難の連続でしたが、まさかその先にこんな幸運が待っているとは夢にも思っていませんでした。
その日を指折り数え、体調を万全にして、12月2日篠山市に向かいました。